インタビュー

ビジュアライター 小笠原さんへのインタビュー【第1部】「言葉にできないもどかしい時代」

小笠原広記さんと佐藤久美の対談です。

小笠原さんは現在、「ビジュアライター」を名乗り、様々なお仕事をされていらっしゃるわけですが、どうやって「ビジュアライター」に行き着いたのか、ここに行き着くまでに、どんな苦労や葛藤があったのか、そんなお話をお聞きしています。

これは本当に私の勝手なイメージなんですけど、小笠原さんって、繊細な方だな~と思いきや、大胆なデザイン&言葉で、ファンを魅了されていらっしゃいます。

特に私なんかは、デザインに関して苦手意識があることも影響しているとは思うのですが、小笠原さんが大賞を受賞されたデザインの解説を拝見したときに「こんなに細かいことまでなんでできるんだろう・・・」と、私はこんなに頑張れないな~って思ったんですよね。

だから、小笠原さんがデザインを始められたきっかけとか、そのあたりからお話をお聞きしました。

久美
久美
今日はビジュアライターの小笠原広記さんにお話をうかがいたいと思います。では小笠原さん、よろしくお願いします!
小笠原さん
小笠原さん
はい、よろしくお願いします 。
久美
久美
今日はですね、小笠原さんのルーツって気になるっていう方が多かったので、どういう経験をして、どんなことを思って、どんな行動をして今に至るのか・・・みたいな、そんな過去から現在そしてこれからみたいな、そんなお話を聞けたらなと思っております!
小笠原さん
小笠原さん
よろしくお願いします 。
久美
久美
元々、フリーのWebデザイナーさんだったんでしょうか?
小笠原さん
小笠原さん
えっと僕は、30歳で会社員を辞めて、それまで東京で不動産業をやっていたんですね・・・

意外!WEBデザインの実務経験がなくて面接で落とされた!?

30歳で会社員を辞め、東京から地元の群馬県に戻ってきました。そのときに、仕事をどうしようかな・・・って思ったときに、Webデザイナーをやりたいなと思いました。

でも、Webデザイナーとしての実務経験が当時はなかったから、面接で落とされてしまったんですよね。仕事もなくて、日雇いでアルバイトをしながら、自宅でできるデザインの仕事をやっていたというのが、始まりになります。

小笠原さん
小笠原さん
その仕事って言っても、当時10年ちょっと前なんで、まだ今みたいに自分の特技を売れたりするサイトなんてなかったんですよね・・・

マッチングサイトで仕事を探していた時代

今は、クラウドワークスやココナラなど、自分の特技やスキルを売ることができるサイトってたくさんありますが、当時はまだそういうのがあまりなく、唯一あったのが、マッチングサイトになります。

仕事を依頼する会社や個人と仕事がほしい人が集まって、マッチングをしてくれるサイトで、ヘッダーのデザインを〇〇円でやりますとか、そういうところから、デザインの仕事を始めました。

久美
久美
あー、そうなんですね!じゃあ別にデザイン系の大学に行ったとかではなくて、普通に不動産の会社に就職して・・・みたいな感じってことですか?
小笠原さん
小笠原さん
あの・・・元々僕じつは、高校生の時に一応、「工業デザイン科」っていうところに行ってたんですよ。あの、珍しいんですけど・・・

これも意外!デザインがしたいわけではなかった!?

勉強があまり得意ではなくて、自分の学力に合う高校のレベルにたまたま工業デザイン科があり、受験をしたら受かりました。

だから当時は、デザインがやりたくてその高校に入ったわけではなく、勉強したくないから、という理由で、高校に入りました。

高校の工業デザイン科ではトップクラス・・・でも・・・

工業デザイン科では、手書きのデッサンや製図、レタリングの授業が中心で、現在のようなWebデザインのようなことは一切やっていませんでした。でも、デッサンは好きで、クラスの中でもトップレベルの成績でした。

そして高校3年生になり、卒業後はどうしようかと考えたときに、就職はしたくない、友達は音楽の専門学校に行くと言っている・・・さて、どうしようかと考えたときに、友達が芸術系の大学では東大だと言われている、東京芸大を受けると言っていたので、「いいじゃんそれ、かっこいいいじゃん」という不純な動機で東京芸術大学を目指すようになります。

小笠原さん
小笠原さん
高校の工業デザイン科でトップクラスって言っても、40人ですからね・・・

レベルが高すぎて撃沈・・・

東京芸大を目指すということで、予備校にも通っていたわけですが、そこで、本気で東京芸大に行こうとしている人たちのレベルの高さに触れます。
本気で芸術系の大学に行こうとしている人たちは、感性も感覚もすごく、そういう人たちが本気でデッサンしたものと、自分が描いたものとを並べたときに、これはかなわないな、と。

小笠原さん
小笠原さん
挫折を味わいました・・・

受験に失敗・・・バンドに逃げる!?

20代のころの、当時の群馬県では、とてもバンドが盛んで、友達も音楽の専門学校に行ったりしていたので、自然と「バンドやろうぜ!」ということになりました。

派遣会社でライン作業の仕事をしながら、「いつかメジャーになるぞ!」みたいな感じで、仕事が終わったらバンド活動という生活をしていました。

バンドは個性の融合体なので、個性がうまく混ざり合ってチームになるわけなんですが、当時この「チーム」を壊しまくっていました。

小笠原さん
小笠原さん
当時、僕自分天才だと思ってたんですよ。若かりし頃なんで、こいつら何でわかんねんだろう・・・みたいな。自分が見てる世界が正解だと思っていて、話がついていけないと、もう見下してたんですよね
久美
久美
えー、そうなんですね!
小笠原さん
小笠原さん
そのクセ、じつは自分、ギター下手くそで・・・下手くそなのに、「もっとこうしようぜ」っていうことだったり、「なんでこの感覚わかんねーの」とか、そういう人間でだったんで、そんなに転々とはしなかったんですけど、僕が壊してた感じですね。
久美
久美
全然違いますね今と・・・
小笠原さん
小笠原さん
それがあったからこそ・・・

なんでこいつら、わかんねぇんだろう・・・涙

当時、派遣会社で流れてくる自動販売機の部品を、ひたすら組み立てるというライン作業をやっていました。その仕事が終わったら、バンドのメンバーで集まって、バンドをやるという生活を送っていたわけなんですが、あるとき、そのライン作業をしながら、「なんでこいつら、全然わかんねぇんだろうな」っていうのをずっと考えているときがあって・・・

小笠原さん
小笠原さん
あの・・恥ずかしいんですけど、涙が出た時があって・・・
小笠原さん
小笠原さん
ラインの流れと同じように、なんか目から水が流れ出してくる状態で、「なんでわかんないんだこいつら」って思ってたときに、ふと、「あれ、何でわかってあげられなかったんだ」って気づいたんですね。

あれ、何でわかってあげられなかったんだ・・・

みんなそれぞれ、いろんな思いがあって、経験も違うし、感性も考え方も違うってなったときに、自分は自分の感性で話をしているということに気づいて・・・

なんでこいつら、わかんねぇんだろうじゃなくて、何で自分が、相手の感覚とかそういうのをわかってやれなかったんだろうって思ったときに、スパッと涙が止まって、相手を理解しなきゃいけないんだなということに気づいたんですね。

小笠原さん
小笠原さん
で・・・これまた不思議な話で、相手を理解しようってつとめすぎて、今度は自分を主張しなくなっていたんですよね・・・
久美
久美
すごい・・・

押し殺されてた人間です

人を理解しなきゃいけないって思ったり、どっか会社員時代とか仕事をしてても、ちょっとお偉いさんに忖度したりとか、自分の主張なんかしても意味ないなと思ったりとかして、喋らなくなったんですよ。

会社員時代は自分を押し殺している生活がずっと続いていて、でも自分の中では、いろんな思いがあったり、言いたいのに言えないっていう思いがあったりとか、もう押し殺して押し殺して・・・キュッとなってるんですよね。

それで気がついたのが、「世の中の人、結構みんな同じなんじゃないかな」というか、自分が本当に表現するべきことがあるのに、会社にいたりとか、ルールとか、いろんなことで押し込められて、自分を表現できない人って今いっぱいいるんじゃないのかなって思った時にスパンって開けたんですよ。

小笠原さん
小笠原さん
そのときに、表現する場がないといけないなと思って、表現していかないといけないな、と思ったんですよね。
小笠原さん
小笠原さん
世の中がもっと自己表現できるような世の中になって行かなきゃいけないっていうか、会社員で押し込められた時に、ビジネスアイディアとかもあって、手帳にメモしていこうと思ったけど、文章が全く書けないんですよね。
小笠原さん
小笠原さん
頭にあるビジョンとか描いている夢とかそういうものが言葉にできないと言うか・・・
久美
久美
あーもどかしいですね、それは・・・
小笠原さん
小笠原さん
結局そのまま会社を辞めて、群馬に戻って、フリーランスデザイナーをやるっていう流れになったっていう話です。
久美
久美
Webのデザインをやろうと思ったのは何だったんですか ?

 

第2部へ続く